2016年4月23日土曜日

太宰治の女たち

太宰治の女たち

 

 2010年に精神疾患の切り口で太宰の作品や半生を研究した本が突如現れた。トラウマやADHDはたまた自己愛性パーソナリティ障害といった切り口で太宰を新たに批評する地平線が21世紀になって立ち現れた。しかし実際のところDSM片手に太宰の作品を語ったとして、誰にどれぐらい理解されるかはわからないが、人工知能や知育といった分野ではまた太宰のパーソナリティが見直される日はくるかもしれない。

 心中というのは江戸時代に文化になっているように、制圧された時代の最終手段として日本で文化としてあって、曽根崎心中始め近松門左衛門という人が多くの作品を残している。曽根崎心中を読んでみると、本当はたいしたことないような理由で二人で死のうとする。初めから死を選ぶような、尋常じゃない雰囲気が日本の文化の背景にはあって、切腹のような風習も一般にはクレイジーだと考えられるだろう。一方で私たちは死刑もクレイジーだと言えばいい。太宰は腐っても左翼だ。


 それにしても、評伝見る限り尋常じゃないのは太宰の方というか太宰に関わった女たちの方だ。ADHD本のエピソードを見ると、女性一般から太宰はろくな目にあっていない。似たような境遇だとやはり光源氏を思い出す。源氏は実際のところ、作品中でほとんどいい目に遭っていない。母親に若くして死なれて、その代わりをずっと探し続ける。位が高いし金もあるだろうから様々な女性と逢瀬を重ねようとするが、いつも失敗したり相手が不本意だったり、傷ついたり傷つけたりする。女性が作ったキャラクターだというのも感慨深い。どう考えても今アンケートとって浮かび上がる理想的な男性像とは程遠い。



 単純に映画や小説が好きで、たまたま流行作家だった芥川龍之介のような立派な作品を書きスターになりたかった男太宰としては、実際書く題材がこのような悲惨な女性経験の切り売りしかないとすると気の毒になってくる。

同じように単純に文学が好きだった男、三島由紀夫にもスター性があったが、はなからそこまで女性に同調する素養も疾患も経験もないし、方向性は男色やマッチョの方向に行って、一人で異様な作品を書いて一人でその生涯を閉じる。社会人としてはまだ三島由紀夫の方がなんか同情できる。


 太宰の文体や文章については、これまでも様々評価されてきているし、そのテーマについても多くの人に支持されているが、モデルの女性や作品の成り立ちを考えると、どうもいつも何らか女性が寄り添っている必要があって、二人で名前消して、二人でドアを閉めるといった常に対象を必要とするようなところが太宰の制作のアプローチにはある。それが悪いとは言わないが、そんなことしなくてももっと面白いもの沢山かけたんじゃないの?というのは師匠格の井伏鱒二の言葉だが、まあもうビョーキなんだからしょうがない。


 この本は太宰の作品の成り立ちに関連する5人の女性について綴ったものだ。都度都度の言葉をまにうけ、死に場所を探し、どこまでいっても何もはねのけられないスタンスというのは、人によっては嫌いだというし、人によっては同調できるというたぐいのもので、そういう本人の人物像が立ち現れるように作品を作り上げた太宰劇場みたいなものの上で、近代から現代への過渡期にいたこの作家の作品をまだみんないろいろなことを言って読んでいる。